Sさんは全国に営業網を持つ大手機械部品メーカーの営業マン。地元の営業所にUターン転職して7年になる。
営業所はスタッフ10人足らずの小所帯だが、近隣に競合他社が少ないこともあり、不況下にあってもまずまずの業績を保ち、Sさんも多忙な毎日を送っている。
営業という仕事柄、日中はほとんど営業所内にいることはなく、自分の席に落ち着いて座るのは夕方以降というのがSさんの日常だった。
しかし、その日は体調が優れず、午前中は自宅で静養することにした。午後から客先への訪問予定が数件入っていたため、体調は決して万全とは言えなかったが、Sさんは昼前に営業所に入った。そして、商談に必要な書類を確認すると、営業車に乗り込んで客先へと出かけていった。
何とか無事に最後の訪問を終え、Sさんは帰路に就いた。気が緩んだのか、営業車に乗ってしばらくすると、仕事中は感じなかった体のだるさが押し寄せてきた。気分も悪い。今日はすぐに帰ろう。Sさんはそう思った。
途中、どこかで少し休んでいこうかとも考えたが、余計に辛くなる。Sさんはまっすぐ、そして通常よりも慎重な運転で営業所へと車を走らせた。
営業所は街の中心部から少し離れた場所にある。最近は周辺にも建物が増えてきていたが、Sさんが入社した頃は田畑が広がるのどかな場所だった。そのため、営業所周辺には信号のある交差点がなかった。
Sさんの車は営業所に一番近い信号のある交差点を抜けた。後は信号のない交差点を左折し、狭い道路を道なりに進めば、営業所の建物がすぐに見えてくる。それまで気を張りつめてステアリングを握っていたSさんであったが、ほっとしたのか緊張感が弱まっていった。
Sさんにとっての不幸は、そのことをはっきりと自覚できなかったことだった……。
信号のある交差点を抜けてしばらくすると、目指す交差点が見えてきた。その交差点は左方向が数年前に整備された比較的道幅の広い道路で、Sさんが戻ろうとしている営業所のある方向でもあった。右方向は車がやっとすれ違えるくらいの細い道路になっていた。
Sさんは前方から対向車が来ていることを認識した。その黒いセダンは右のウインカーを点滅させていた。
それを見てSさんもウインカーを出さなくてはいけないことに気がついた。Sさんは慌ててウインカーレバーを押し下げた。そして、交差点を左折すべく、ステアリングを左側に大きく回した……。
Sさんは反射的にブレーキを踏んだ。自分の車と同時に黒いセダンが右折してきたからだった。しかし、間に合わなかった。交差点の中央付近で2台の車が止まった。Sさんの車の右側面に黒いセダンの左前部分が軽く突き刺さるような状況になっていた。
「おい、あんた、右に曲がるんじゃなかったのか!何やってんだ、ふざけんなよ!」
黒いセダンから降りてきた若い男が血相を変えて叫んだ。Sさんは激しいめまいと吐き気がしてステアリングに顔を伏せてしまった。男の怒号もはっきりとは聞き取れなかった。
そして、自分がウインカーを出し間違えたことにはまだ、気がついてはいなかった……。